scattered piece : 1 Cool Clear Spring 〜 出会いと別れの季節の中で
 
 
 ――シェーラ ( クロスヒル ・ セント=マーチャーシュ教会 ・ 霊園 )
 
 
 都会から少し離れた野原。高層建築の残影がまだ遠くに蟠って見える。その手前には、過酷な大量生産大量消費の経済が生み出した哀れな鉄屑が、今にも緑に飲み込まれようとしていた。蔦に絡まれ朽ち果てた鉄骨は、まるで太古の竜の骸だ。しかし、哀れみを忘れさせるほど長い間そこに居座り続けている事を感じさせる。思わず、昔聞いた御伽噺が脳裏に浮かぶ。大地を轟かせるほど巨大な竜が、小さな小さな友を亡くし、千と一つの夜を泣き明かして自らの巨躯を自らの墓標とした――そんな話だったと思う。
 緑の萌える草原も綺麗な風景も、そちらの方だけは哀れ資本主義経済に蝕まれていた。
 しかし。
 逆側を見渡せば景色は素晴らしいの一言に尽きる。この場に画家がいればキャンバスを、写真家がいればカメラを、それぞれ大至急で取り出すだろう。
 何ヘクタールあるのか皆目見当も付かない、広大な面積を誇る草原。芝生のような背丈の低い草が、辺り一面の全てを緑色の絨毯で覆っていた。遠くを見渡せば、所々に木々が茂っていて、その様はまるで緑の水面に浮かぶ島々のようだ。所々でなだらかな起伏を見せる原野は、時折こぶのような小さな丘や棘のような岩盤もこしらえる。遠くから見たそれは、寝そべった巨大生物の背中にも見える。風に煽られた草が波を立てる様は、まるで丘そのものが呼吸しているようだ。大地は躍動感と生命に満ち溢れていた。
 遠くには幾つかの蒼い山影が薄ぼんやりと見て取れ、広大な背景を映し出す。それよりも薄い空の色が、世界の全てを覆っている。
 空は高く、世界は果てしなく広く。
 この広大な景色が、この広大な場所が、あんな狭いキャンバスに収まるはずがない。あんな小さなフィルムに収まるはずがない。この風景の全てを絵画で表しきれるものか。この風景の全てを写真で表しきれるものか。
 世界のどこを見渡しても、そこは青と緑で満ち溢れていた。
 まるで自分が世界の中心に立っているかのような錯覚を覚える。世界の全てがここに集約されている気がした。ここを見ていれば世界全体を見渡しているような気さえした。
 と、上天から温かな光をもたらしていた太陽が、綿菓子のような真っ白な雲に覆い隠される。思わず視線を上に向けると、後ろから爽やかな風が駆け抜けてわたしの髪で遊んでいった。春風に流されてゆっくりと移動して行く雲。上空の実物の移動に続いて、その影が地面を滑って行く。巨大な飛行船か、或いは空中を浮かぶクジラか。思わずそんなものを想像してしまう。
 世界は、穏やかだった。
 世界は、美しかった。
 私が今見ている世界は、どこからどう見ても疑いようも間違いようもないほど、壮大で精緻で芸術的だった
 
「来てよかったね」
 サンドラは言う。
 そうだね、とわたしは相槌を入れた。何の連絡も入れずに来たので断られるのが普通だろう。断られてしまったらせっかく作った弁当を自宅へ持ち帰って、ベランダからのお馴染みの眺望を肴にして、みんなで寂しくついばむ羽目になったというのに。牧師さんがいい人だったしサンドラとコネもあったお陰で、事は素晴らしくスムーズに進んだ。
 霊園の空いた土地でピクニックなど、一体誰が思いつくだろう。しかもそれの許可が下りた。何事もやってみるものだ。ダメでもともと来てみたものの、結果は意外に大成功。マットを敷いてわたしとサンドラはそこに腰を下ろしていた。マットなんて、本当はしかなくてもよかったのかもしれない。草の匂いと感触が素晴らしく心地よかった。
 季節は春真っ盛り。花は咲き乱れ、霊園の一角を色とりどりの花弁で着飾る。霊園の一角に設けられた花壇は満開の花で満たされていて、そこだけどこか違う世界のようにすら思えた。赤、紫、黄色、オレンジ、青、ピンク…色とりどりの花々は、そこが物語りの中であるかのように素晴らしい演出を施した。そこにかぎらず花はあちこちに咲いており、緑の絨毯の中にも所々に見て取る事が出来る。草原の中に紛れて咲く、たった一輪二輪でも、風情や可愛げがあってどれも奇麗さを損なわれていなかった。
 と、風景に見とれるわたしを現実に引き戻すように、穏やかな春風が私の髪を撫でていった。風に伴って付いて来た花の香りがわたしの鼻腔をくすぐる。新緑の匂いは風に連れられて静かな霊園を包んでいた。舞い踊る風が草を撫でていき、それに靡く草は波をつくる。海洋の如き波のうねりははるか遠くまでも連なっていく。まるで海の上に腰を下ろしているようだ。
 緑の波を作った風は、そのまま上空へと舞い上がっていって空に解ける。草花を揺らし、時に花びらをさらっていく風は、春のすがすがしさに満ち溢れていた。

 しかし、
 蝶の舞う穏やかなこの季節に、何故人は別れを告げねばならないのだろうか。一面の花々が生まれ出る者への誕生花になるのと一緒に、没する者への埋葬花になるのは何故か。
 春。
 わたしは、あまり好きにはなれない。
 目の前で蝶と戯れる子供を見ても、隣に座って空を眺める友を見ても、野原で遊ぶ同志を見ても、のどかな風景とすがすがしい空気を授かっても、穏やかな太陽の光を受けても、すがすがしい新緑と花々の匂いを嗅いでも、それでもわたしは好きになれない。
 私にとっては、春は辛い思い出が多い。
 それに…
 この春は、私にとっても周りのみんなにとっても、別れの季節となってしまうから…
 わたしは、春を好きにはなれない

「ねぇ。シェーラ」
 高く可愛げがある、ふとしたら女の子と間違えてしまいそうな声で、わたしは思考の海から戻ってくる。空を見上げていたわたしは声のした方に顔を向けた。
「なに?」
 声の主――レイに返事をする。視線をそちらに向ければ無垢な瞳と目が合う。と、両手で包み込むようにして何かを抱えているのが見えた。さっき追いかけていた蝶を捕まえたんだろうか。
「…どうかしたの? うかない顔してたけど」
 心配そうにわたしの顔を覗き込むレイ。予想だにしない事をいわれ、わたしは思わず過敏に反応してしまった。要らぬ心配だと突っぱねる事も出来ようが、しかし最近のわたしは消耗しすぎてその気力すら湧かなかった。とても冗談を言う気にはなれなかったのだ。
 不意に、この可愛らしい顔がもう二度と見られなくなってしまうとの思考が頭に浮かんだ。そう思うと悲しくて胸が痛んだ。
 まだまだわたしは別れたくなかった。ずっとこのままでいたかった。
 この子は素直でいい子だ。そして優しい。物分りもいい。してあげたいことは山ほどあるし、教えたいことも山ほどある。わたしが正しいという保証はどこにもないけれど、でもこの子に伝えたい事は沢山ある。
 まだまだこの子は大きくなれる。
 何かをすれば必ずそれに応えてくれる。
 それなのに、どうしてここで別れろと?
 別れはいつか来るもの。しかし何故今でなければならないの?
 運命が神にのみ定められ、神のみがそれに触れることを許されるのなら、わたしは神を許さない。たとえそれを冒涜する事になっても構わない。わたしは神を呪う。
 このような運命を何故わたしに授けた?
 …いや、そうではない。
 何故ここまで過酷な運命をこの子に授けた? この子の大切なものをこれ以上奪おうというの? そんなことが許されるはずがない。わたしが許さない。この子の苦しみを、この子の悲しみを、あなたは本当に御存知か? 存じておられるのなら何故今にも増して辛い運命を彼に与える?
 わたしには理解できない。
 人を弄ぶなんて、わたしには出来ない。
 他者に絶望を与えて楽しむおつもりか。もしそうであるのならわたしはあなたを許さない。背神者と言われようが、いかなる罰を受けようが、わたしは一向に構わない。
 この子を絶望から開放せよ! わたしはどうなっても構わない!
「…シェーラ…?」
 レイの声でわたしは目の前に精神を戻した。目の前のレイは心配そうな顔でわたしを見上げていた。
「どうしたの? 何かあったの?」
 幼いながらも他人にかける心配と愛情は一人前。この子のいいところの一つだ。だが、そのしぐさや瞳はわたしをより一層絶望へと誘った。それが偽りでないから、余計に
 わたしがいなくなったら、この子は一体どうなる? 失い続けて消耗して生きてきたこの子からわたしを取り上げたら一体何が残るというの?
 最も考えたくはない、しかし実際に起こってしまう悲しい事実。わたしはそれに対して何も出来ない。
 何も、出来ない…
 何も…
 何も出来ない!
 無力な自分をわたしは呪った。
 何も出来ない自分を! レールの上に乗っている事しか出来ない自分を!
 運命が見える力など誰が与えただろう。わたしにはそんなものは必要ない。
 わたしにもっと力があったら…
「……」
 目の前の優しく悲しく、そしてまだ幼い瞳と目があって、わたしは心の中の渇望を洗われた。力を欲する事がどれだけ危険な事なのかを、わたしは辛うじて思い出した。
「ごめん。考え事してたから」
「…シェーラ…」
 それでもまだ幼さの残る瞳には動揺が色濃く残っていた。
 さっきの事は、今話すべきではない。レイの瞳を見て判断したわたしはさっきの考えを心の底へと封印して平常を装う事に決めた。
「なんでもないの。大丈夫だからそんな顔しないで」
「…ホントに?」
「大丈夫よ」
 言って私は笑って見せた。
 私の笑顔を見て安心したのかレイはいつもの笑顔を取り戻した。
 やはり、笑顔の似合う子だ。この笑顔を見せられたら、こっちだって幸せになってしまう。
 それは深い悲しみを知っているからこそ輝く笑みなのだが、しかし一見するだけでは悲しみなど知らない無垢で無邪気な笑みに見える。決して壊れて欲しくない笑みだ。月日が流れても私がいなくなっても、幾千万の出会いと別れの中で、生まれては消える事象の中で、それでもこれだけは絶対に忘れて欲しくない。この笑顔だけは。悲しみが分かるから絶望から人を救い出すことも出来るこの笑顔。わたしは、絶対に忘れて欲しくはない。
 いつも先生は言う。涙と笑顔を失ったら人はもうおしまいだ、と。
 そのとおりだ。
 幾星霜の時を超えて形を変えながらも命は繋がっている。その中で今失われつつあるのは人の最も大切なもの。人の持つ感情そのもの。
 物を買い与えられて偽りの欲望しか満たされていない子供達。目の前の欲望が偽りであると誰も教えなければ自ら気付く者などまずいないだろう。お陰で彼らは本当の喜びを知らない。
 信じるという事を間違って教えられる子供達。人を信頼する事を知らなければ裏切られる事ももちろん知らない。お陰で彼らは本当の怒りを知らない。
 人を愛する事を忘れさせるような教育を受ける子供達。愛するものがなければそれを失っても流す涙などないだろう。お陰で彼らは本当の哀しみを知らない。
 生きる上での本当の楽しみが何であるのか、その答えの欠片すら教えてもらえない子供達。何のために自分が生きるのか、そして自分に何ができるのか、それを全く知らずに学問で消耗しては生きると言う事の真の意味を掴む暇もあるまい。お陰で彼らは本当の楽しみを知らない。
 この子には、教えたいことが山ほどある。
 偽りが蔓延り、幻影ばかりが目を惑わすこの時代。この子には、それに踊らされる愚者にはなって欲しくない。
 ほんの一時面倒をみただけで母を語るのはあまりに滑稽だ。血も繋がっていなければ満足に教育というものも出来ていない。おまけにこの子をあまりに理解してあげられない、負った傷の一つも癒してやれない、そんなわたしに母親を名乗る資格などあるわけがない。
 ――しかし、こう願わずにはいられない。母親として我が子に感じる愛が何であるかを少しは汲み取ったわたしが、こう思わない理由など少しもない。
 わたしは、どうなってもいい。せめてこの子の旅路に健やかな風と一輪の花を――と。
 
 風の赴くまま生きよ。大地の恩寵を受け健やかに育て。汝が行く先見つめよ。風の音を聞き、水の流れを感じ、大地と共に呼吸し、光の祝福を受けよ。
 汝は大いなる大地の子。
 汝が名は光。
 汝が名は光
 
 レイ…
 いい名前だ。
 出逢った時、直感でわたしはそう思った。
 仇名ではあるが、しかし誰がつけたのだろう。わたしからみればこれ以上似合う仇名は見当たらない。
 彼は光そのもの。
 今の時代を明るく照らす一条の希望の光。幻影を取り払い蔓延る闇を浄化する。きっと将来大きく羽ばたくことだろう。
 
 いつも一抹の希望を胸に
 わたしのモットー。そして活力の源。
 焦る必要はない。諦める必要もない。
 いつの世にも不変なものなど存在しない。現状などいつもその場で変わるもの。
 見据えよ。光はそこに有り。
 死は終わりではない。死を受け入れた時こそ、真の意味での終わりなのだ。
 流転する運命がたとえ逆らう事を許さなくても、わたしはそれに屈しない!
 変わるのは運命ではない。
 自分だ。
 変えるのは運命ではない。
 自分なんだ
 
 わたしは決着をつけるとレイに向き直った。そして笑って見せた。先程のうわべだけの笑みではない。心の底から今度は笑うことが出来た。
「ごめんね。心配かけて」
「いいよ。気にしないで」
 言ってレイは微笑んだ。わたしも微笑み返した。最近は迫り来る運命に動転しそうな心を保つのに必死で、こんな表情をした事なんてなかった。心にゆとりがないと危険だという先生の言葉が脳裏に蘇り、わたしはそれを頭にもう一度刻みつけた。もう道を誤る事などないだろう。真に大切な事が何であるのか悟ったわたしが、そんな愚を犯すはずは毛頭なかった。
「もう大丈夫だから」
「うん」
 お互いそう言って笑った。そこに偽りなど微塵もなかった。
 そこは戻っていた。いつもの――そう。いつもどおりの『場所』に。
 言葉はなくてもいい。本当に伝えたい事があるのなら、そこに言葉など必要ない。言葉は不完全だ。分かりあうのに言葉など無用の長物。瞳と、そして心は如実に事を伝えてくれる。
 そう。諦める必要なんて最初からなかった。
 わたしには――いや。わたしたちには、この子がいる。
 時を越えて繋がる命。潰える事を知らぬその輪の中にこの子は必ず栄光の光をもたらしてくれる。
 
 死は終わりではない。
 死を受け入れたときこそ、諦めたときこそ、真の意味での終焉なのだ。
 そう。諦めてしまったら、何事もそこで終わってしまうのだ。日常でもそう。非日常であってもそう。どんなことも、諦めたらそこで終わってしまう。
 時間がない。力が足りない。
 それはただの言い訳に過ぎない。
 目先にある運命。
 それだって言い訳に他ならないのだ。
 信じる力は無限大だ。自分が想えば想うほど強くなる。上限など存在しない。
 わたしは諦めない。死しても魂までは滅びはしない。
 信じる事がどこまで出来るか。死とはそれを試す試練でしかない。
 信じる事が出来ない理由など一体わたしのどこにあろう。
 わたしは諦めない。
 何度でも
 ――そう、何度でも。
 何度でも、わたしは蘇る
 
 
「見て。これ。捕まえたんだ」
 言ってレイは両手で作った籠を少しだけ開けて中を見せてくれた。中には小さな白い蝶が外に出ようと羽ばたいていた。
「瓶もってない? 虫かごとか」
 レイは両手を塞いでわたしに聞いた。
「ないけど」
 わたしはそうとだけ答えた。
「なんだ。残念」
 残念そうに塞いだ手の中に視線を戻すレイ。
「持ち帰るつもりだったの?」
「うん」
 レイは元気に頷いた。
「放してあげなさい」
 わたしは言った。
「え〜。せっかく捕まえたのに」
 レイは顔を膨らませた。蝶を手放すのはやはり残念なのだろう。そんなレイにわたしは優しく言い聞かせた。
「蝶は寿命が短いの。自由にしてあげて」
 静かに、わたしは言った。
「…でも…」
 レイはわたしの言葉に少なからず動揺した。しかし、それでもレイは食い下がった。レイにとっては蝶は興味の対象。――確かに、育ち盛り、学び盛りの子供から貴重な研究対象を奪うのもどうかと思う。
 わたしは、今度は趣向を変えた。レイには、学んでほしいことが沢山ある。学問では学べないことが沢山。私が出来る範囲で、時間が許す限りそれをしてあげたい。またとない機会を、蝶は与えてくれた。わたしはレイの手の中にある蝶に感謝した。
「…蝶は、今とても恐がってるわ」
「……」
 レイはわたしの目を見て、そして手の中の蝶に視線を移す。蝶は気が狂ったように羽を羽ばたかせて出口を探していた。
「あなたがその気になれば、蝶を握り潰す事も出来る」
「僕そんな事しないよ!」
 わたしの言葉にレイは半ば怒って言った。
「でも、やろうと思えば出来るでしょ」
「……」
 今度は、レイは押し黙った。
 そう。誰だって否定はできない。生まれ持った力は。
「たとえあなたがそれをする気がなくても、しなくても、それを為しえる力を持っていれば、それに抵抗できなければ、それだけで相手は恐怖するわ。分かるでしょ?」
「……」
 レイは俯いた。物分りのいい子だ。自分が何をしているのかを、そして何をしていけないのかをわたしが殆ど何も言わなくても分かってくれる。
「鳥篭、欲しい?」
 わたしはまた趣向を――というか、話を変えてみた。子供相手にはちょっと飛躍しすぎたかもしれない。
「外は見える。だけど外には出られない。外は危険。鳥篭はたしかに守ってくれる」
 レイはわたしの言葉に真剣に耳を傾ける。わたしは少し間を空けてから続けた。
「でも、鳥篭は自分じゃ壊せない。一度入ったらなかなか出られない。それに、自由を奪ってしまう。安寧を手に入れる代わりに自由は殆どなくなってしまう」
 それを聞いたレイは表情を曇らせた。
 ――そう。あなたが与える物は安寧。しかし、あなたは同時に自由を奪い取る。蝶の意志など無関係に。
「それでも、鳥篭欲しい?」
 わたしは念を押すように付け足した。
「…どうしても、逃がさなきゃいけないの?」
 俯いて手中の蝶に視線を向けるレイ。顔を上げた時には蝶との別れを惜しむような表情を浮かべていた。――やっぱり、優しい子ね。惜しんではいるものの、逃がす気でいる。
「あなたが決めなさい。あなたがこの蝶の運命を。生かすか殺すか、自由を再び与えるかそれとも奪うか。あなたが決めなさい。蝶はあなたの手中にあるの」
 少し強い口調でわたしは言った。
「…そうよ。人の命もそれと同じよ。命は脆いもの。失えば、それは二度と戻ってこない」
 レイは俯いた。――こんな事、言わなくてもレイには分かっているのかもしれない。でも、手にした力は否定できないから
「誰かよりも強い力があるっていうのは、いつもそういうことを意味するの。覚えておいて。力とは誰かの運命すら捻じ曲げてしまうほど強力なの。鳥篭に入れることも出来ればどこかに縛っておく事も出来る。その気になれば握り潰す事すら出来る。力とは、そういうものだから…だから、それを持つという事がどれほど恐ろしいことか、よく考えて。そして、その蝶の運命を、あなたの意思で決めなさい。あなたの力がその蝶を束縛するのか解放するのか、あなたの意志で決めなさい。あなたの力で」
「……」
 レイは、黙って頷いた。
 わたしは今度は笑顔を浮かべ、言ってあげた。
「レイ」
 わたしの呼びかけにレイは顔を上げる。わたしはその頭に手を乗せる。
「確かに、蝶の命は儚いものよ。でも、蝶は自由に飛び回るもの。たとえ自分の命が脆いものだと知っていても蝶は飛ぶのをやめたりしないわ。そうでしょ?」
 笑顔で頭を撫でるわたし。レイは笑顔で頷いた。
「さあ」
 ……
 ――
 
 
 
 蝶は解き放たれた。
 空に舞い上がる真っ白な蝶。開放された喜びか、それとも圧倒的な力に対する恐れか。蝶はあっという間に空に吸い込まれるが如く小さい体を青い空に溶け込ませた。見失ってしまった蝶を再び発見する事は出来なかった。だが、レイの顔は曇らなかった。
「よかったの?」
 わたしは聞いてみた。半ば無理矢理そうさせてしまったため、本人の正直な思いを聞いてみたかった。
「…いいんだ」
 レイは言ったきり黙ってしまった。が、いつまでも蝶が消えていった空を見つめていた。いつまでも。いつまでも…
 わたしもそれに倣った。視線を上げ、青空と向き合う。
 同時にわたしは気付いた。無意味な問いかけをしたんだと。
 青空はきれいだった。そして、とても大きかった。蝶一匹呑み込もうと色の片鱗すら変えない。圧倒的なスケールにはやはり小さな蝶などいともたやすく隠されてしまう。小さな体はここからその姿をとらえる事を不可能にしていた。どれだけ綺麗な模様があろうと、どれだけ綺麗な仕草で飛ぼうと、蝶の大きさでは大空とは比べ物にもならなかった。
 しかし、蝶はどこかにいる。たしかにそこに存在する。
 目に見えないからといって存在を否定するのは愚かしい事。自らの視力の浅はかさが分かろうというもの。
 蝶の一匹ならば、空に呑まれてそれきりだろう。
 だが、数千数万の大群ともなると空もそう悠長にはしていられまい。
 小さき者も、たとえ個々の力が小さくとも、その小ささ故に群れる事を可能とする。大きなものも、絶対的な力を持つものも、個々を蹂躙する事が出来ても群れを崩す事はそうそう容易な事ではない。
 レイ…
 わたしは視線を下ろす。そこには、今はもう空に溶けた蝶をそれでも見つめるまだ幼い子供がいた。
 この子なら大丈夫。絶対にいい仲間を集められる。
 わたしの視線に気付いてレイはこちらへ顔を向けた。
「いい子ね」
 わたしは言ってレイの頭をなでた。
「当たり前の事しただけだよ。蝶がかわいそうだもん」
「そうね」
 わたしはそう言って微笑んだ。レイもそれに答えてくれた。
 ――そう。
 この優しさ。
 大丈夫。何も恐れなくていい。
 この子の優しさは絶対に伝わる筈。誰もが分かってくれる。絶対に上手くいく。
 レイ
 健やかに、生きなさい
 恐れる事など何もない
 迷う事があれば自分の名前を思い出してみなさい
 あなたは光
 何にも負けない希望の光
 わたしには見守る事しか出来ないけれど――
 それでもずっと側にいる
 忘れないで
 みんな、あなたと一緒にいるのだから
 みんな、あなたを祝福しているのだから