piece : 3 Bloody Oath 〜 緋色の十字架
 
 
   ―ヴァリス ( エンブレイス教会・門前 )
 
 
「僕も、連れて行ってください」
 そんな事を言われて驚かない理由はない。
 ピートは私に向けてそう言ったのだった。私が行く先へ、つまるところレイの行く先へ、自分も連れて行けというのだ。
「勝手だという事は分かっています。でも、今の僕には正直ここを維持していくだけの自信がないんです。お願いします。旅に出て迷いを払拭したいんです」
 ピートは切な願いをそのまま私にぶつけた。
「……」
 しかし、私はピートの表情の奥底に隠された暗い影を見落としはしなかった。
「…本当に、それだけか?」
 私の問いにピートの体が硬直した。
「――鋭いですね」
 自嘲の笑みを浮かべ、そう言うピート。
「魂の絆を持つ者に偽りを述べるのは(いささ)か苦労するだろうな」
「でしょうね」
 ピートはそう言ったきり黙ってしまった。私はしばらく様子を見ていたが、それは本人が決着をつけることだ。干渉を止めて視線を外した。
 ――そう。ピートの胸の内にあるものは、普段の顔とはかけ離れた感情、憎悪と復讐の怨嗟だった。
「――一つだけ訊こう。必ず答えをくれ」
 私はそう切り出した。ピートと視線を合わすこともなく。
 当惑するピートを敢えて無視して私は言葉を放った。
「お前は、本当にそれでいいのか?」
 途端、ピートの目が驚愕に見開かれる。
 お前は、本当にそれでいいのか?
 その質問は何度も何度も繰り返し繰り返し襲い掛かった。私にも、そしてピートにも。永遠の木霊が自分の心の中で反響を無限に繰り返した。
「……」
 無論、答えなどでないだろう。いつも人は思い、躊躇(ためら)う。自分は――果たして、本当にこれでいいのか、と。世界に絶対の正義など無く、人は常に正しい選択のみを実行できるわけではない。
「答えが出ないようならお前についてくる資格はない。ここを守れ」
 冷酷に、突き放すように私は言った。
「――優しい、人ですね…」
 俯いたまま自嘲の笑みを浮かべ、ピートは言う。
「よしてくれ。私は優しくなどない。その言葉は私よりももっと相応しい人物に言ってやれ」
「……」
 ピートは鼻で笑い、苦笑する。
「…分かりました」
 溜息混じりに言葉を吐く。天を仰いで言うピート。呼吸と共に言葉さえも、そこに込められた力さえもが、天に吸い込まれてしまうような、そんな気がした。
「そう、か」
 私も宙を仰ぎ、言葉を乗せる。
「ついていきます」
「――!?」
 その返答は、もちろんわたしの予期するものではなかった。
「お前――」
 反射的に振り返り、ピートを仰ぐ私。しかし、そこにある意志の光は確かなものだった。私は出かけた言葉を飲み込んだ。
「…いいんだな?」
 そこにある意思は硬かった。だから、私がどうこう言って変えられるものではない。私が出来る事といえば、確認をとることぐらいなものだ。その信念を、より確かのものにするための。
 ピートは、頷く。
「そうか…」
 私もそう言って頷いた。 「なら、私は何も言わない」
「――ありがとうございます」
「よしてくれ。私がした事は殺人教唆(きょうさ)だ」
 自嘲の笑みを浮かべ、鼻で笑う。そしてピートから視線を背け、再び天へと視線を延ばす。
「だがな。覚悟はしておけ。お前がやろうとしている事は、レイの方針に逆らう。もしレイにそのことがばれたときは、私は何もしてやれない。お前が決着をつけることになるぞ」
「もとより、そのつもりです」
 はっきりとした意思を込め、ピートはそう言い放った。手に握られた錫杖が軽く音を立てる。それも一つの意思の現れだろう。
「ならば、私にはもう何も言う事はない」
 本当は、止めた方がいいのだろう。だが、最愛の人を殺されて、それでも復讐するなと言えるほど、私は楽観的でもなかった。
 憎ければ、その拳は振り下ろさざるを得ない。それが人の営みだ。それが人の本性だ。
「…だがな。辛いぞ」
 それが、私のかけた、ピートを抑止する最後の言葉だった。
「甘んじて受けます」
 その回答は、もはや選択の余地も猶予もないことを物語っていた。
「分かった。もう止めん」
 私はそう言い残すと先に歩き出した。後ろにピートがつき従う。が、私はピートを突き放すように、振り向きもせず言い放った。
「ただし、お前の職務を忘れるな。留守にするならそう言って来い。そして――血を浴びるのなら、懺悔(ざんげ)をして来い。業を背負う、覚悟をして来い」
「…本当に、優しい人ですね…」
 ピートの表情は、やはり自嘲の笑み。
「よせと言っているだろう。私も所詮、私怨にまかれてその手を朱に染めたただの獣の一匹に過ぎん」
 私の表情も、自嘲だった。
 そこにいるのは咎人と、今から罪を犯そうとする復讐者だけだった

 大切なものを失い、悲嘆し、絶望し、怒りに震え…。そこから得られるものは新たな絶望と復讐の連鎖だと分かっていても、その手は相手の首を欲してやまない。
 レイ…
 私は、お前が羨ましいのかもしれない。何をされても笑って許せるお前が、私は憎いんじゃない。羨ましいんだ。正義や悪といった観念から脱却した考えが出来るお前を、私は尊敬すると同時に羨む。私にはそんな寛大な器量など、無い。そして、目の前で今、罪を犯そうとしている者を止める事も出来なかった…
 時々思う。私もお前のようになれるか、と。
 時間と共に溝はだんだんと露になっていく。自分にかかっていた闇の深さが、光に照らされて自分で意識せざるを得なくなってきた。
 私には無理かもしれない。左手に刻まれた刻印も、手にした巨大な銃口も、そして浴びた返り血すらも、既に私の一部になった。
 私はお前には届かない。
 私はお前のようにはなれない。
 私は…

 ピートの背中を、私は見送る事しか出来なかった。
 十字架を背負う事を覚悟した、断罪の使徒たる男の背中だ。
 自らを守ってくれた門をくぐり、扉を開けて踏み入れる。自らの勤めてきた建物を歩み、長椅子の列を越していく。自らの手で清めてきた祭壇に登り、頭を垂れて跪く。自らの仕えてきた神に祈り、まだ得ぬ罪を懺悔する。
 そして自らが全うしてきた職務に終止符を打ち、自らの胸に罪を刻み付ける。自らの心に楔を打ち、自らを復讐の鬼と化す。
 果たして、ピートは祝福されたのだろうか? 神は復讐者に何と言うのだろうか? 憎悪に任せた殺人を神はいかに裁くのだろう
 残された道は、それしかないのか…?
 私の心の声に、返答は無言ながら確かに返って来た。
 たとえその手が血で染まろうと、たとえその身が朽ち果てようと、誓った復讐は必ず果たすと。その手で、その心で、自分から大切なものを奪った奴を八つ裂きにすると。

 扉が静かに開かれた。懺悔と別れを済ませたピートが、若干の扉の隙間から外に出る。最後に扉に振り返り、放っておいても閉まるそれを優しく閉めた。それは名残を惜しむかのような、しかし発つと決めた者が見せる、我が家に対する礼儀と愛情だった。そして別れの挨拶だった。
「行くか?」
 声をかける私。
「ええ」
 頷きと共に返事が返ってくる。
 ピートから視線をずらし、行き先へと振り向いた私は天を仰いで独白する。
「血は血によってしか(あがな)えぬ、か…」
 自分の言葉を鼻で笑う私。頭をよぎったのはレイの言葉。表情や口調まで、委細に至るまで鮮やかに記憶が蘇ってくる。
『誰だって本当は傷つきたくないはずだし、傷つけたくないはずなんだ』
 詭弁(きべん)
 ただの一言で片付けて、レイを困らせたものだった。
 ――そう言う私のは、ただの言い訳か…
 私はただ、憎しみを理性で抑えられなかっただけだ。代償は大きい。そしてそれは二度と戻ってこない。
「確信犯は罪が重いぞ」
 苦笑しながら私は横目でピートを窺う。
「償える罪などたかが知れたものです。僕がこれから負う罪は、何をしたところで贖罪になどならない。重罪も軽罪も今更ないでしょう」
 ピートも苦笑を返し、言う。そして一拍おいて顔から苦笑を取り払う。
「それこそ、『血は血によってしか贖えぬ』です」
 真摯な瞳に、私は射貫かれた。常にはあらぬピートのあまりに強く鋭い視線に、私は戸惑いを通り越して完全に停滞させられた。
「――」
 改めてその言葉を口にされた私は言葉をなくした。その言葉は腹に重く響き、言葉を発するどころか息さえ詰まった。
「…そう、だな…」
 大きく息を吐き、先ほど詰まった呼吸と思考を体外へと押し出す。
 そこまで、覚悟があったのか…
 ()()によってしか贖えぬ…。自分が産み出した憎悪の責任は、自分の首で贖うというんだな
「…覚悟が足りないのは、私の方か…」
 無意識に、左手の甲の刻印に視線を落とす。見えざる武器を具現させる印に。返り血を浴びた忌まわしき力に。そして、過去と現在とを繋ぐ思い出の在り処に…
 先生…。
 網膜に在らざる光景が浮かび上がる。そして亡き師の幻影が刹那の間だけ虚空に踊る。表情までは、霞んでしまって見えない。
 私は…
 ――
 首を横に振り、考えを頭から追い出す。
 今更死にたくないだ? 戯言を
「――潔くないな」
 大きく息を吐き、それと共に不安や執心を全て吐き出した。そして俯き加減の視線を無理矢理に上へ向ける。
「そうだな。最早、罪は贖えない」
 そうだ。私は幾人殺した。幾人の恨みを買った。今更償える罪ではない。
「ならばせめて苦しみながら生きよう。次の憎悪が、私の首を取りに来るまで」
 印のある左手を握り込む。そして心の(わだかま)りを振り払い、視線を空へと向ける。気持ちの(おり)は風の流れに解けて散った。少しは、迷いが吹っ切れた。少なくとも、そう願いたいものだ
 空は青く澄んでいた。まるで今から始まる旅を祝福するように。屍山血河を築く、血塗られた旅を。
 これが楽しい旅ならば、心も躍っただろうにな…