piece : 2 Soul Link 〜 心の在り処
 
 
   ―ヴァリス ( リノス・エンブレイス教会 )
 
 
「……鎮魂歌、か」
 私は口に出して言った。対するピートは、沈黙で答えた。
 悲しい間が空いて、その間にもオルガンの綺麗な音色は沈黙を許すまいと奏でられた。
「詮索はせん」
 私はそうとだけ言ってピートの傍らに寄り添い、座る。目の前には巨大なパイプオルガンの小さな演奏席があって、ピートはそこに腰掛けてレクイエムを演奏していた。聞いている分には全く苦にならない、綺麗な曲だ。ただ、その意味を知っているか否かで気分は大きく変わる。
 オルガンを演奏するピートは、渇いていた。渇いた涙を流し、渇いた悲鳴をあげていた。私にはそれが伝わってきたが、どうする事も出来ない私は、そのままそこに腰掛けたまま黙っていた。私にはピートに何か言う資格もレクイエムを唄う資格も、ない。私がここにいていい資格すらもない。私には何も出来ない。
 何も、出来ない…
 真の孤独を知らない私は何もしてやれないのだ。
 それに、
 私では力になれない。支えられない。私とピートとはそういった関係にはないのだ。私では、彼が失った部分を補う事など出来ないのだ…。
 
 曲は盛り上がりを見せる。天に届けといわんばかりに音響は木霊し、教会内を覆い尽くした。大きなパイプを備えた小さなオルガンは、演奏者の心をそのまま映せるだけの許容量を持っていた。広い聖堂を様様な音が満たした。私はただそれに聞き入っていた。
 その音が一体何を言いたいのか、私は分かった。
 分かったが、理解できなかった。
 本当の孤独を知らない私に、それは理解できなかった

 突然、
 盛り上がりから一気に音がなくなる。教会を反響が満たした。そしてそれも余韻を残しつつ、消えた。
 辺りには物音一つ無くなった。
 私は言い得ぬ緊張と恐怖に縛られ、身動き一つ取れなくなった。眼球さえも動かない。視界はそれでもはっきりとしていて、それでも全てが虚ろだった。私の頭の中に響いてきた声が激しすぎて、視界は在るようで全く無かった。金縛りとはこういうものかと興醒めしたもう一人の自分は冷静に思っていたりした。
「……」
 ピートの歯軋りの音は私に届いた。それは些細な音だったが、私には大きく響いた。恐怖に縛られた私の頭にその音は重く響く。精神を引き裂かれるような音だった。
 それはまさにピートの叫びだったのだ。
「……」
 ピートは、それから項垂れた。
 項垂れたまま、何も言わなかった。
 下を向いた視線が元に戻る事はなかった。オルガンの音が再び教会を満たす事もなかった。ピートが何かを取り戻す事もなければ私が彼を慰める事もなかった。
 辺りは沈黙で包まれた。
 もう二度と、終わりが訪れないような沈黙だった。

「…ヴァリスさん」

「……なんだ」

 この時ほど応え辛かった事は、過去一度もなかった。
「極楽浄土って、信じますか?」
「……」
 私は返答が出来なくなった。
「仏道の教えです。現世で善行を行えば必ず来世は極楽へ行けるそうです」
「……」
 私は沈黙する他なかった。どういう回答を彼は望んでいるのか、私には分からなかった。ただ、軽はずみに信じているとだけ答えてしまえば彼を傷付ける事は分かった。そういう答えではなくて、真剣に彼は訊いてきているのを私は理解できた。
「…分からない」
 私は、こう答えた。
「科学も不完全だ。証明出来ないからといって無いとは限らない。人が造った物で完全なものなんて無いからな」
「……」
 帰ってきたのはやはり沈黙だった。だが私にはその沈黙を破る言葉が何故だか有った。仏道には多少は精通していたのもあるが、それとは違うもっと内面的なもので、私はピートに何か言ってやれるような気がした。
「お釈迦様は立派な方だ。欲を知った上で欲を捨てよと解いている」
 私は言う。対するピートは俯いたまま。
 私は上を向き、続ける。
「持たざる者はそれを欲して幸を見失う。持てる者はそれの維持に精神をすり減らし、幸を失う。即ち、手に入れた上で其を捨てよ。仏道の教えとは謙虚である事の幸福を説いたものではないか」
 ピートは黙って聞いているようだった。私は続けた。
「極楽浄土だの輪廻転生だのは言い訳だ。言い訳をしなければ昔の人は信じてくれなかったのかもしれないし、他の理由があるのかもしれない。だが、今は必要ない。善行を行う事、つまりは私欲をすり減らす事が真の幸福へ繋がる事だと気付いたのだからな」
 ピートの表情が少しだけ変わった。それがいいものになったのか、それともより悪いものになったのか私は理解できなかったが。
「他人のために何かをする。何かして喜んでもらえたら自分も嬉しい。それでいいんじゃないのか、極楽浄土は」
 私は続けた。ピートにどういう感を擁いて欲しいのか自分でも分からないままに。
「報酬は笑顔だけで十分だ、そう思えるならそれが一番幸せだと私は思う。本当に想う人の為に生き抜くことが出来たのならば、それは幸福なんじゃないだろうか」
 私の想う所はそんな事だ。迷いに迷った末に、そういう答えに辿り着いたのだ。それはただの自己満足であり、偽善である。しかし、それは確かに幸せである。それは分かった。
「死が辛いとは誰も決めていない。生命を設計する時にたまたまそういうカタチで遺伝子にインプットされたものだから、死ぬことを知らずに恐れているだけだ。亡くなった人の顔をよく見つめてみろ。悲しい顔をして死んでいったか? それとも満ち足りた顔だったか?」
 私の言葉にピートは息を飲んだ。
「辛いのは残された方だ。死にたければ死ねる。だが生きようと思うのには苦労が絶えない。何かを喰わなければいけないという事が根本にある。それを乗り越えたとしても障害は多々ある。失うものは多いだろう。泣きたい事も多いだろう。逆らえない事があって、割り切れない事があって、守れない物があって、そうやってしか生きていく事なんて出来ない」
 私はそこまで喋ると間を空けた。そして彼の顔を窺った。彼の顔に渦巻く意識は明瞭になってきていた。だが、まだ決心は出来ないのだろう。
 私は口を開く。
「――あとを、追うか?」

 音も時間も消滅した

 重い沈黙と、何かの余韻のような音が教会を満たした。教会の空気の重さは尋常ではなかった。尋常ではない空間と時間が、虚数値の時空がそこには存在した。
 しかし私は重い沈黙を振り払って口を開く。
「無理をしろとは言わない。辛いのなら止めはしない。だが……」
 私は息を飲んだ。
 こんな事を言ったら死者を冒涜しかねない、そう思ったからだ。
 しかし私は断行した。
「亡くなった人がお前をどう想っていたのか、考えに入れて欲しい…」
 ピートは顔色を変えた。まるで我に帰ったかのように彼の瞳は力を取り戻した。
 私は安心して嘆息した。
 私の役目はここまでだ。
 これ以上は本人の問題なのだ。
 そう。
 命の使い切り方は人それぞれなのだ。それに干渉する権利は他人にはない。価値観が違うのだ。一体誰が自分にとって命を投げ出してまで救う人なのか。そして命を投げ出してまで救われたのなら、得た命をどう使い切るか。それをよく肝に銘じなければならないのだ。そんな重要な事を、他人である私が決められるわけがない。
 私は、それをもう嫌というほど経験した。救われた命でどう生きるか、そしてどう死ぬかはそれでも分からなかった。だから他人の命を徒(いたずら)に奪ったりした。無駄に悲嘆と憎悪を増やしてしまった。だが最近は、信ずるべきものもあって、守るべきものもある。迷いはいつの間にか消えた。レイのおかげだろう。解決するのは、もしかしたら時間なのかもしれないが、それでも…
 それでも――
 譲れないものは、持つべきなのだ。
 自分はこれでいいのだという答えは、早めに出しておいた方がいい。
 私の「回答」はもうある。
 私はもうこれでいいのだ。
 レイに仕える。そしてリースとレイを守る。
 私は、もうこれでいいのだ。

 強くなれとは言わない。
 諦めろとも言わない。
 ただ、知ってほしい。そして忘れないでほしい。
 命が脆いものであること。
 そして、自分にとっての命の価値は、決して平等ではない事を。
 そしてそれを知って考えてほしい。
 自分の中で何が重い命なのかを。
 何を守るべきなのかを。
 命とは、いつの世もそういうものだ。
 何を生かすか。何を殺すか。
 生きる者には、それを選択する義務がある

「…もし不都合がないなら、さっきの続きを聞かせてくれ。音が無くなったあの小節の続きが聞きたい」
 私は彼の顔から視線を外し、オルガンのパイプに目を向ける。くすんでいるものの、真鍮の輝きを見せるそれは、傾きかけた午後の日差しを反射して鮮やかにきらめいた。高い天井までは届かずとも、その質量は十分。重厚な音楽を奏でるために設置されたパイプの群は神々しい輝きを見せていた。
「迷惑でないなら、私の母と古い相棒と師にも手向けてやってくれ。三人とも墓も立ててやれずにさぞ怒っている事だろう。私の代弁人になってもらってすまないが、やってもらえないだろうか」
 私は穏やかな笑みを顔に浮かべ、ピートに向き直る。
 ピートは最初は複雑な表情だったが、それでも涙をふるい、凛とした表情で頷いて見せた。
「ありがとう」
 私はそう言って満面の笑みを浮かべた。
 私にも、こんな表情が出来たのだな…
 私はそんな事を思ったりした。


 音楽はやはり綺麗だった。高い音は刺々しさを見せなかったし、低い音は沈んだ感じを与えない。高音が神聖さを奏で、重低音が体の奥底まで浸透する。それはまさに、魂を揺さぶる大競演だった。
 天へ、届け。
 もっと高く。
 もっと早く。
 曲は盛り上がる。テンポは速くなり、その中に入ってくる音の数も増える。複雑な和音をピートは紡いでいく。パイプで増幅された音が教会に満ちる。音は重なる。一度に十数本のパイプが音を吐き出す。それでも互いを潰しあう事は無い。各々が輝いていた。
 曲が、更に盛り上がる。
 そして、音が途絶える。

 数瞬の間をおいて、音楽は再開された。
 最後のフレーズ。
 音の数が激増する。
 それでもピートは奏でた。凄まじい音響が教会の壁に反射して私の耳朶を打った。
 音の競演は続く。そしてテンポはだんだんと落ちていき、
 そして――
 最後の和音を奏でる。
 パイプはここぞと持っている力の全てを放出する。教会が音で満たされた。こここそが聖域だと言わんばかりに、教会は音に満ち溢れた。

 ピートが鍵盤を押さえる手を離す。
 音は、教会に長い余韻を残し、消えていった。まるで天に吸い込まれていったようだった。

 私は音楽が終わったあとも微動だにしなかった。そこにある静寂があまりに神聖だったため、物音一つ立てられないでいた。

「…」
 ピートが俯き、そして席を立った。彼はそのまま教会の奥へと続く扉へ歩いていく。
 私は焦った。
 今、どうすべきか。
 私の脳内をあらゆる情報が行き交う。一秒と経たずに私は答えを出した。
「ピート」
 私の声にピートは立ち止まる。
「…ありがとう。」
 私は言った。
 ピートは振り向き、頷いて見せる。そして、顔を元に戻した。悲しみに染まった笑みのまま、彼は歩みを再会した。
 私は先程よりも更に焦った。
 彼は、行ってしまう。呼び止めるのはさっきよりも難しい。でも呼び止めなければ行ってしまう。行かせていいのか?
 私は口を開く。
「……」
 だがそこから言葉は生まれない。金縛りにでもあったようだ。喉に言葉が詰まって息が出来ない。
「……」
 私はそれでも執拗にもがく。しかしそんな私の努力は皆無。場の威圧感に押し潰されそうで声など出ない。
 ピートは歩みを再開した。無慈悲な速度でピートは去っていく。
 どうすればいい?
 どうすれば…!
「……」
 私は弱い自分を叱咤した。大切な友を救えるのは私しかいないのだ。
 私は心のそこから咆哮を上げる。声にならずとも、それは叫びになった。
 魂の、叫びに。

 ピート!

 私の叫びにピートは振り向く。
 私は喜びと驚きに目を見開いた。
 私は、しばらく微動だに出来なかった。
 感情には雑多なものが多すぎた。それでも、私が彼との絆を造るのに成功した喜びが大きかった。
 お互いの心と心が、今繋がった。
 言葉など介さずとも理解しあえる。
 全ては魂の在るがままに。
 私は、心で会話する方法を生まれながらにして知っていたのだ。

 私は口を開く。今度は、言える。
「…もし許してくれるなら、私にもその痛みを肩代わりさせてくれないか。」
 私は言った。雑多な感情を全て振り払って。
「……」
 しかし、ピートは戸惑っていた。訳が分からないといったふうだった。自分の心が異質な心を包含している。自分の中に他人がいる。それはピートにとってはあるまじき事だった。
「もし不服がないのなら、私を使ってくれ」
 私は繰り返した。ピートを安心させるように。
 だんだんと事を理解していったピートは、それでも戸惑っていた。
 はっきりと伝わってくる。
 私に見合うのは自分でもいいのかという戸惑い。それと同時に自分に見合うのが私でもいいのかという戸惑い。
 ――突然では、やはり辛いだろう。しかし、恐れる事は何もない。こうして絆が出来たのだから。
「私のいたいけな自己満足と罪滅ぼしに付き合ってはくれないか」
 私は言う。やさしい顔で。
「……」
 ピートの頑なだった顔が徐々に徐々に崩れていった。ピートの頑なだった心に少しずつ少しずつ隙間が開いていく。
「すまないな。迷惑かけて」
 声に出して言って、私は優しい笑みをうかべる。
 とうとう、ピートの自分を閉じ込めていた檻が完全に砕け散った。
 ピートは崩れ落ち、泣き出した。幼さまで滲み出た嗚咽だった。
 私はピートの側までいき、目の前に座る。触れない距離。しかし、体温を感じられる距離。
 これ以上近付く必要はない。距離を気にする事はない。
 それは最も自然な距離。
 ピートが泣き止むまで、ここにいるつもりだ。

 無駄な言葉は要らない。無駄な接触もいらない。私たちは、そういう仲になれたのだ。
 傷付くのはいい。ただ、傷付いている者を見ると放ってはおけない。
 私の信念はいつの間にかそんなものに摩り替わっていた。

 私は脳裏に浮かんだ母の言葉を口に出す。あの時母が最期に私に言った言葉。私はその意を今になってやっと掴んだ。
「肉体が滅んでも魂は滅びはしない。信じる想いが不滅にする」
 私はピートにではなく、自分に言い聞かす。
「大切なのは、失ったものをどう補うかではない。それを永久に想い続ける事が出来るか否かだ」
 ピートはそれに嗚咽を洩らしながらも頷いた。私の内心もそれに頷く。
 私は、これでいい、と。
 私は、これでいいのだ